龍島院境内には、名君と称えられる村田城主・伊達宗高公の御廟が静かに佇んでいます。

 宗高は、伊達政宗の七男として仙台の青葉城で生まれ、幼名を「長松丸」と称しました。慶長十八年(1613年)に数え七歳で村田城の城主となり、柴田・刈田両郡で三万石を領有しました。

 元和九年(1615年)の冬に噴火した刈田岳は、郷土に大きな被害を及ぼし、人々を恐怖に陥れました。そこで政宗は、中国人の易者・王翼(おうよく)に指示を仰ぎ、祈祷によって噴火を鎮めるよう宗高に命じました。

 宗高は、寛永元年(1626年)十月五日、王翼とともに刈田岳に登って火口近くに祭壇を設け、節の付いた青竹に自分の息を吹き込み、そこに埋めました。このことは、宗高の生命を捧げたことを意味するものでした。

 この誠意が天に通じたのか、祈祷が終わる頃には噴煙活動が次第に鎮まり、夜に入ると全く止んでしまった―と言われています。

 この若き城主の崇高な行為は領民の心を打ち、やがて神のごとく敬慕されるようになったのです。

 しかし、宗高は寛永三年(1626年)、京都二条の要法事で天然痘に罹り、惜しくも二十歳の若さで客死しました。

 宗高の仁心・義心に溢れる精神は、今なお村田の人々の心の中に伝わっています。