平安時代の中期以後は、中央政府の政治が乱れ、国の統制もゆるみ、東北の地も次第に騒然としてきた。そこで、各地の豪族・安倍頼時と、その子・貞任、宗任らは、中央の命令に従わなかった。その頃、中央政府は、朝廷に服属した蝦夷(えぞ)集団の中から「力量があり、人々の心服する者」を選んで「俘囚(ふしゅう)の長」とした。「俘囚」とは「虜(とりこ)」の意味であるが蝦夷が王化に服したとき「俘囚」と呼んだのである。そして、順化の程度の薄い者を「夷俘(いふ)」として区別した。

 中央政府は、東北の統治に俘囚長を利用し、ある程度の蝦夷の自治を認めていた。安倍氏は俘囚長として、今の岩手県地方を支配していたのである。

 安倍氏は国司の命に従わず、国司の軍を敗った。政府は追討軍を派遣したが、常に敗退していた。そこで政府は、源氏の大将・源頼義(みなもとの・よりよし)に、この鎮圧を委ねたのである。

 頼義は、長子の八幡太郎義家とともに多賀の国府に来た。始めのうち、頼時らは頼義に従っていたが、やがて和が破れ、頼義は戦に敗れて仙南地方に逃れ、敵に囲まれて苦戦を重ね、義家らの奮戦によりようやく血路を開くことができた。そして頼義は、出羽の俘囚長・清原光頼、武則兄弟らの助力を請い、その力を借りて反撃に転じ、ついに康平五年(1063年)九月に安倍氏を滅ぼすことができた。この戦いを「前九年の役(ぜんくねんのえき)」という。

 源義家が、村田付近で敵軍に包囲されて危機に陥ったとき、白鳥神社境内のフジの木が二匹の大蛇となって敵を追い払ってくれた−という伝説があり、戦の後、このフジの木に「奥州の蛇藤(おうしゅうのじゃふじ)」の名が付いたという。

 このフジは社前の鳥居の内の東側にあって、地上を這うこと4メートル、そして斜め上に1.5メートル上がり、更に西北に伸びて参道を越え、二株の老杉に巻きつき、しの木の梢まで25メートルほど上がり、ちょうど大蛇が横たわっているように見えるので、このような伝説が生まれたものであろう。

 頼義父子は、康平五年正月に陣太刀一振を白鳥神社に寄進したと伝えられる。その陣太刀は、今はなくなってしまったが、義家の自筆といわれる次のような寄進状が残っている。

 

「陣太刀 壱振

  為天下泰平寄進之状如件

    康平五年正月二日 源義家花押

       村田郷 白鳥鎮守」

 中央政府は、承暦二年(1076年)に、陸奥の国司に命じて、社殿を始め付属の建物を造営させたという。